大御所カメラマンの撮影日に寝坊した悪夢のような朝

大御所カメラマンの撮影日に寝坊した悪夢のような朝

その日は大学時代からの友人である田村が住む西荻窪のアパートで飲んでいました。ミリオン出版に入社し、URECCO編集部に配属されて2ヶ月目くらいだったと思います。毎日が夢のような日々でした。当時の有名単体AV女優はもちろんのこと、グラビアアイドルにも毎日のように会い仕事をするようになって、かなり浮ついていたんですよね。田村に自慢気に毎日こんなことがあるんだぜ、なんて話しながら深酒していたんです。

「いや〜〜こないだMEGUMIの撮影があってさ」

「熊田曜子にさあ、こんなこと言われちゃってさ」

「なかなかいい女だったぜ、安めぐみ」

今から考えると、田村はよく辛抱してくれたと思います。彼は「おお〜すげ〜」とか「お前やるなあ」と実に肯定的な相づちばかりを打ってくれました。私も舌が非常によく滑り、これからの芸能界はこうでなくっちゃいかんとか俺が雑誌をやるんだったらこうしていくとか演説していました。もし今すぐにタイムマシーンであの日に戻れるならば「今すぐ帰れボケ!」と言いに行きたい気持ちでいっぱいです。田村すまん。

この頃、私は不動産屋に騙されて東小金井という村に住んでいました。もとい「市」ですね。中央線で西荻窪→吉祥寺→三鷹→武蔵境→東小金井という位置関係で、田村の住んでいる駅が手前だったので降りてよく飲みに行っていたわけです。
田村の住んでいたアパートは築40年ほどの小汚い2階の部屋で、トイレの中にシャワーが付いている奇っ怪なレイアウトでした。シャワーを浴びると便器がずぶ濡れになるという構造で、それを指摘していつも笑いにしていました。しかし彼はいつも「いや〜まいったよホント」と言うだけでした。台所の幅も50センチくらいでした。そこを抜けていくと6畳ほどの和室があるわけですが、その部屋の下は駐車場になっており私は「空中シャワー室」と呼んで馬鹿にしていましたが、今や彼は世田谷区に地下室のある贅沢な一軒家を建てセレブな暮らしをしています。こんな身近に「東京ドリーム」があるなんて驚きなんですけどね。

 

「おい、タブー郎! 朝やで! もう9時やけど大丈夫か!?」

 

前夜、あまりにも気持ちよく酒を飲んで眠ってしまい、目が覚めたらその日の撮影の集合時間をとうに1時間過ぎていました。確か土曜日だったので田村は休みの日。私がなかなか起きないので心配して起こしてくれたのでした。
「おまえ、今日撮影があるって言ってなかった?」
あるもなにも、大アリですよ。この日の撮影はけっこう大掛かりなもので、普段は借りないロケバスをチャーターして千葉の東金にあるスタジオへ行く予定だったのです。仕切りはもちろん大島編集長で、細かいことは私の仕事です。普段なら下っ端の自分が運転して撮影に出かけるのですが、この日はロケバスが会社に迎えに来るため絶対に遅れてはならない日でした。モデルさんもメイクさんやスタイリストさんも全員が会社集合です。それだけではありません………URECCO創刊以来ずっと表紙を撮り続けている大御所カメラマン・稲村幸夫大先生の現場だったのです!

 

みなさん、稲村幸夫カメラマンをご存知ですか?

私が世界で一番尊敬するカメラマンです。とにかく稲村さんの写真はすごい! URECCOはグラビア雑誌ですから、とにかく編集者も写真にうるさい。しかしカメラマンはもっとうるさくて、編集がこれでいいと言っても納得する人はほとんどいませんでした。当時はすべてフィルムで撮影していましたから一発勝負。その中で自分の世界観を完璧に表現するためにカメラマンたちはしのぎを削っていました。腕一本で生きている男たちは怖い人ばかりです。そのトップに君臨していたのが稲村先生です。私にとっては松本人志みたいな人です。
稲村先生は私のような下っ端には怖くてなかなか口もきけない存在でした。大島編集長よりURECCO歴が長く、写真が分からなければ誰も対等に口をきける人ではありません。当時の私はネガとポジの違いも知らないド素人でしたから、「踊れ」と言われた踊って笑ってもらうくらいしか出来ることはなかったのです。
稲村先生の写真の何がすごいかはURECCOのバックナンバーを検索して見てもらえれば分かりますし(表紙はすべて稲村さんです)、ホームページにもサンプル写真がたくさん掲載されていますよ。

これだけはどうしても言いたいのですが、グラビア写真を撮るカメラマンというのは、その辺にいる自称カメラマンとは技術に雲泥の差があります。はっきり言って、真似しようとしてできるものではありません。師匠から脈々と受け継がれている「伝統芸」なんですよ。そしてその技術を駆使して「女の子をかわいく撮る」ことができるスペシャリストです。一見簡単なことのように聞こえるかもしれませんが、これはきちんと修行をしてなおかつセンスが無いと絶対にできることではありません。デジタルになって写真なんて誰でも撮れる時代になりましたが、写真を撮る理屈というのはアナログ時代から変わってはいません。その理屈が分かっているか・分かっていないかはデジタル写真の中にも大きく差がでます。グラビアカメラマンってすごいんです。で、とりわけ稲村さんはすごいんです。そんな“松本人志”の現場で大寝坊をやらかしたわけですから私が生きた心地がしなかったのもご理解頂けますよね。

やばい、こわい、やばいやばい、こわい………
私は心配そうに眺めている田村の横で大島編集長に電話をしました。

 

 

 

「もうロケバス高速だし、今日は来なくていいから」

 

 

 

大島さんの返答は意外なものでした。電話口で怒鳴られるかと思ったら「来なくていい」って言うんですよぉ、みなさん(泣)! こんな怖いことってありますかぁ!? めっちゃ怒ってはるじゃないですか。これが本当の「万事休す」って奴ですよ。
私はこんな言葉を真に受けて二度寝するようなゆとり世代ではありません!

 

やばいやばいやばいやばい!!!!!

 

「行きます! 大島さん絶対行きます!!!」と電話口で涙声で言いました。大島さんは「あそー、好きにしー」と最寄り駅だけを教えてくれました。2秒で着替えて田村の部屋の狭小キッチンを抜けます。1秒で田村の淹れてくれたコーヒーを飲み干しました。空中シャワー室から西荻窪駅まで走って20秒かかりました。無心で電車に飛び乗ります。ここから千葉県の東金市まで、どうやって行ったのか、どんな気持ちだったのか、ほとんど記憶がありません。ヤフー乗り換え案内アプリなんて無い時代です。大島さんが教えてくれたJRの最寄り駅に、おそらく昼前頃に到着したのではなかったでしょうか。

最寄り駅は確か無人駅でした。列車の繋がりも悪く2時間はかかりました。駅を降りて「なんだここは!」と小峠さんよりも何年か早く叫んだ気がします。で、その駅からスタジオまではまだまだ距離があります。バスなんて絶対にない感じだし、はたしてタクシーがいるのかどうか。改札を飛び出たら、想像以上に何もなく、人んちの庭くらいのサイズのロータリーを見て膝から崩れ落ちました。
「だめだ……ここからどうやって行ったらいいか、分からねえ……」
万事休したかと思いました。その時です。

 

プップーーーー!

 

小さなロータリーの隅っこに停められていた車からクラクションがなりました。それは私が今日朝イチで乗るはずだったロケバスでした。運転席の窓が開き、グラサンをした角刈りで強面のおじさんがバスにのるように顎で合図しました。
「ご、後藤さん!!」
ミリオン出版がよく利用していたロケバス屋の後藤さんでした。大島さんが頼んだのか、後藤さんが善意で来てくれたのかは分かりませんが私だけを迎えにわざわざ駅まで来てくれていたのです!

「世話の焼けるボウズだなあ、バカヤローめ」

ロケバスに飛び乗った私に後藤さんはいつもの口調で言いました。詳細は分からないけど後藤さんは若い頃、池袋の不良だったとかで言葉遣いが完全にアッチの人なんです。すみません、本当にすみません。謝る私に、
「バカヤロ、俺に謝ってどうする」
と呟いていました。
そこから3〜40分走ったでしょうか。大きな南欧風のハウススタジオに到着しました。ここは庭に大きなプールも有り、写真集などでよく利用されているスタジオでした。
「ほら、着いたぞ。走れっ!」
ハンドルを握りながら振り向き、後藤さんは私に喝を入れてくれました。
「ありがとうございます!!!!」

 

入口の扉までダッシュで走り、そこで一旦止まりました。ここまで来たら逃げることなんて出来ません。とにかく、誠意です。誠心誠意、謝罪の心しかありません。大きく息を吸って扉を開けました。

 

「みなさん、遅れてしまいまして申し訳ありませんっ!!!!!」

 

腹から声を出し、一礼しました。誰も居ませんでしたが、声がするのでおそらく奥だろうと思い、キッチンの方へ走りました。ちょうど休憩中だったらしくてダイニングで大島さんがコーヒーを飲んでいました。
「あ、大島さん、申し訳あり………」
大島さんは顔で「あっちが先」と合図しました。そちらの方向には稲村先生が床暖房の聞いた床に座りポラを見ながらタバコを吸っていました。私はそこへスライディングするように滑り込み、土下座をしました。

「稲村先生、遅刻してしまって申し訳ありません!!!!!!!!!!!!!!!!」

稲村先生はタバコをくわえたままゆっくりと顔を上げ、言いました。

 

 

「一応、礼儀は知っているみたいだね」

 

 

寒気がしました。この人も怒らないわけです。この時のこのセリフ、今でも夢を見ることがあります。私は若かったし、どうしていいか分かりませんでしたが、「先生、あの、本当にすみませんでした。起きたら…知らない部屋にいて、いや、あの、本当に申し訳ありません! 二度とこのようなことがないように……」と必死に謝罪しましたが、「大島くん、彼は来月分の給料はないんだっけ?」と稲村さんはボケるばかりです。もう謝る言葉が見つからなくて呆然としてると、稲村さんが「モデルさん、いま二階でメイク直してるよ」と言いました。は、はいっ! 助け舟を出して頂いたので急いで二階へダッシュしました。

「コンコン! 入ります!」

もうノックの音も口で言っていたような気がします。
私の記憶が確かならば、その日のモデルさんは大城美和さんだったと思います。クリームなどのお菓子系雑誌で人気のあったアイドルで、彼女を表紙にするという大事な撮影だったのです。検索してみると2001年8月号のようですね。
「岡本っちゃん、やっちまったな(笑)」
茶化してくるメイクさんとスタイリストさんにも謝罪しながら、大城美和さんの前に立ちました。彼女は初対面だし、私が遅刻してるとかもよく把握していないのでポカンとしていました。
「大城さん、何のことだか分からないと思いますが、私、今日遅刻しまして。申し訳ありません!」
ポカン顔に微妙な笑顔を浮かべて、
「あ、いえ……とんでもない」
と大城美和さんは答えてくれました。
「今の『とんでもない』の『い』の顔で読者プレゼント用のポラ撮らせてください。いきますよ、ハイチーズ!」
私はすぐさま仕事モードに入りました。遅れた分を取り戻さなくてはいけない。やらなけりゃいけないことが山ほどあったのです。

 

 

その日はとにかく遅刻で失った時間と信頼を取り戻したくて必死に働きました。撮影は無事に終わり、モデルさんやスタッフさんを送り、ロケバス屋さんもお帰りになり、稲村さんもお送りして、大島さんと二人になりました。

「大島さん、今日は本当にすみませんでした」

改めて、ご迷惑をおかけしたことを謝罪しました。大島さんは、

「おまえ、どうするかと思ったけど、来たなあw」

と言いました。「え?」という私に、大島さんは続けてこう言いました。

 

「本当に来なくて良かったんだよ。
俺の担当の現場だから、
おまえがいなくても俺一人で何でもできるしな。
一番大事なのはモデルさんがいい気分で仕事して、
カメラマンがいい写真を撮ることなんだよ。
そこさえ出来てれば何の問題もないだろ。
俺たち、裸の姉ちゃんに食わしてもらってんだ。
お前がいつか担当になった時、
それだけ忘れんなよ」

 

2017年現在、この文章を書いている今も思います。
この時の大島さん「名裁き」ですよね。

私は最近若い人たちと付き合うことが多いので何となく分かるんだけど、「来なくていいよ」って言われたら本当に行かない人って多いんじゃないかなと思います。それは彼らが逃げているとか、面倒臭いことが嫌いってことじゃなくて、今の若い人たちは頭が良いので「今行ったら、本当に邪魔をしてしまうし迷惑だろう」ということが読めてしまうんだと思います。だから相手の言葉を忖度して「行かない」という選択をするのだろうと思います。それはそれで思いやりがあるし、私も理解を示したいと考えています。

ただ、私の経験上、こういう場合は全てを投げ打ってでも、行ったほうが良いです。全身の筋肉を使って謝罪をすれば、その日に終わります。「明日謝らなければいけない」というストレスを抱えることもありません。それに、私のように上司から金言をもらうこともあります。いつか部下ができた時に、こういうことを言ってあげたい。その時はそう思ったんですが、実際に自分が部下を持った時は、良い上司にはなれませんでしたが…。

 

それから長いミリオン出版生活において、
私は一度も遅刻はしませんでした。
怖くて出来るはずがありません。
朝が早い時は会社の階段の踊り場にテントを建てて寝ていました。

 

大島さんはその後、私を稲村さんの担当にしました。
稲村さんといったい何本のグラビアを撮ったか分かりません。
先生は他人にも自分にも厳しい人なので、
なかなか普通の人は取っ付きにくい所があるんですが、
私は先生との仕事が楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。
私は私なりに写真のことを猛勉強し、
最後の頃はカメラの絞りさえ見れば、
今稲村さんが何を撮っているのかが分かるようになりました。
「俺の絞りを見るな!」
と何度も怒られました(笑)。
私も生意気だったので、
「先生、そこは開放じゃないんじゃないすか!」
と口答えするようになっていました。
スタジオで表紙の撮影をしたり、外にロケに行ったり、時にはゲリラで撮ってはいけない場所に行ったり、稲村先生とたくさんの経験をさせて頂きました。
当時はブローニーというロール状になったフィルムで撮影しており、これは巻き取るのがとても大変なのですが、私はその辺のスタジオマンより早く巻ける自信がありました。大島さんにしかブローニーを手渡さなかった稲村さんが初めて私に預けた時、涙が出る想いでした。

 

稲村幸夫が撮ったURECCO創刊から全ての表紙は今でも嶄然と輝いています。

 

それからたまに現場で大城美和さんに会うと、
「あ、遅刻の人!」
と笑ってくれるようになりました。
あの時、行っといて本当に良かった。