日本に遊郭があった時代をあなたはいつ頃か認識していますか?

日本に遊郭があった時代をあなたはいつ頃か認識していますか?

アンチ安倍晋三のおばさんとセックスをしたあと、私とライターの鈴木さんは、朝まで合計12軒の飲み屋をハシゴ取材しました。前編でも書きましたように、こういう地道なフィールドワークが取材には必ず必要です。

たまに調べずして「まあいいや、分かった」と言い、妄想でそのまま記事を書くライターがいます。事実、私は何人かそういう人間を見ており、そういう人間が偉大なるジャーナリストの名前を冠した賞を取っています。ですから、権威なんて信用できないんですよ。日産や東芝や神戸製鋼が嘘八百の製品を売っており問題になってますが、大きいところだから安心とか有名だから大丈夫だろうという考え方は、何も考えていないのと一緒なんです。いろんなものを疑うという目を養わなければ、ずっとずっと騙される側にしか立てないんですよ。それがいいって人も多くいます。そういう人は死ぬまで搾取されたらいいと思います。しかし、私のブログを読むような変わってる人には、この言葉が刺さることを祈っています。

 

例えば、こうして多くの店を巡りますよね。そうすると、2軒目で聞いたことが6軒目でまた出てきて、裏が取れてしまうことだってあるんです。ですから、単に飲んでるだけだろうと侮る無かれ。北関東の取材時に飲み屋で偶然地元の有力者と意気投合し、その人が翌日の取材を全て取り仕切ってくれたこともあります。飲んで、唄って、騒ぐことも、大切な取材の一コマなんですよ。
事実、こうして熱海の取材は完璧に近い形で情報が取れました。翌日も昨夜出会った女の子と待ち合わせし取材に協力してもらったり、前日には全く見えていなかった熱海の違う姿を掴むことが出来たのです。
ライター鈴木光司から学んだ取材哲学、それは「ひたすら飲む」ということでしたけれど、これを出来ないライターって結構多いと思いますよ。

 

私「鈴木さん、熱海はもうバッチリですね」

鈴「そうだねえ…充分書けると思う。ただ……」

私「分かります(笑)」

鈴「だよね?」

 

鈴木さんと津々浦々、いつも一緒に取材をしているからこそ分かり合える場面でした。我々は「何か物足りないよね」と言いたかったのです。現場の風俗を廻り、街の現象も抑えた。聞き込みは確度も高く、写真素材にも困らない。記事は充分に書けるだろう。しかし、まだ何かあんじゃねーか? と思っていたのです。

 

「どうでしょう。歴史を調べてみませんか?」

 

あまり有名でない、辺鄙な街を取材する時、私は一番最初に現場の図書館や公民館へ向かいます。図書館には必ずその街の資料コーナーがあり、思ってみない情報が取れたりします。まあ、基本中の基本なのですが、熱海の場合は有名な街なので資料よりも先に現場に出ていました。翌日の午後は時間が出来ましたので、資料あさりに時間を使おうということになったのです。

熱海の図書館に入り、引用できそうな資料を探し、コピーを取る作業をしていましたが、ふと思うところがあり私は図書館の職員に話しかけてみました。

「すみません。熱海の歴史に詳しい郷土資料家をご存知ありませんか?」

これは、何の気なしに言った言葉です。昔のことが少し聞けたらいいなあ、くらいの考えでした。しかし、熱海の図書館の方々は非常に親切で「ちょっとお待ちください」と言って、みなさんが奥の方で会議をし始めました。ありゃ……悪いこと聞いちゃったかな……と思って鈴木さんの方を見ると「も〜〜要らんコトしてぇ〜」な顔をしていました。10分位経ったでしょうか。先ほどの職員の方が戻ってきました。

「お一人、ご紹介できます!」

いろいろあって、図書館で紹介して頂いた郷土資料家の方のお宅へ行くことになりました。先方へは図書館から連絡を入れて頂いたこともあり、笑顔で迎えてくださりました。私は名刺を出し、かくかくしかじか熱海の風俗を調べているんですということを正直に話しました。

 

「………なるほどぉ………」

 

郷土資料家さんは私の話を聞いてから宙を見つめ始めました。
そりゃあ、そうですよね。この方は、熱海が好きだからこそ郷土資料を調べているわけです。東京からやって来た雑誌編集者に地元の風俗を記事にされるなんてたまったものじゃない、黙りこくるのも納得できます。私と鈴木さんは「帰るべか」とアイコンタクトしました。

 

「こういうのって……運命なのかなあ……」

 

感慨深そうに、郷土資料家さんは我々を見ました。

 

「はい?」

 

私は初期の『相棒』の杉下右京のように軽めの「はい?」を出しました。

 

 

「そこの棚のね、一番下にたくさん箱があるでしょ。それ開けてみて」

 

 

郷土資料家さんは70歳位でしたか、老眼鏡越しに見える目が鋭くなったのを見逃しませんでした。指を刺した方を見るとスチールで出来たラックがあり、その最下段に結婚式の引出物を入れているような箱が5〜6箱ありました。胸騒ぎがした私は急いで箱を手に取り、蓋を開けました。

 

「あああああ!!!! す、鈴木さん!!!!!!」

 

そこに入っていたのは大量の紙焼き写真でした。

すべてセピア色に退化したモノクロ写真でした。

映し出されていたのは熱海の遊郭の写真でした。

 

客を誘う女たち。

物珍しそうに女を物色する浴衣姿の男たち。

艶やかな遊郭が1色で表現されており、

生きた写真が詰め込まれていました。

今にも動き出しそうな写真、

私は感動に打ちひしがれてしまいました!

 

「いやねえ……朝日新聞のカメラマンがね、ずっと熱海を撮っていたんですよ。その方がこないだ亡くなってねえ。大量に写真があるもんだから、もしも使えるなら持って行ってくれってご家族の方から頂いた写真なんですよねえ」

 

これらの写真は、朝日新聞熱海通信局長であった忍田中(1910〜1999)さんが生涯にわたって記録してきた熱海の姿でした。ものすごく貴重な写真に、忍田さんの死後7年ほど経って我々は出会うことが出来たのです! なんという、なんということでしょうか!

我々は郷土資料家さんにこの写真を是非世に出させてほしいとお願いしました。すると、彼はこう言いました。

「私が取材者だったら、あなたと同じことを言うでしょう。お気持ちは分かります。ただ、これは熱海の恥部でもある。私は私の職業として、貸したくない気持ちもあります」

この正直な気持ちは我々も当然だと思いました。

「でもね……忍田さん、この写真を世に出したかったと思うんだよね」

郷土資料家さんの言葉は続きます。

「だから、あなたがた。遺族の方に連絡を取ってみてくださいよ。その方々が『是非に』って言うなら、私は喜んでこれをお貸しします」

胸が張り裂けそうでした。熱海の人たち、なんていい人ばかりなんだ。私たちは遺族の方と連絡を取ってから、また写真を借りに来ることを約束して一度東京に戻りました。

 

 

 

しかし、この遺族の方を探しだすのがまた一苦労でした。7年の空白の間に、忍田さんの遺族の方々も他界されたり転居されたりで、見つからないんです。すわ、お蔵入りか!? と思っていた矢先に、鈴木さんから連絡が入りました。

 

「岡本くん、見つかったよ……」

 

なんと、鈴木さんは、忍田さんの息子さん(故人)の奥さんだった方を都内で発見したのです。我々は藁をもすがる思いで、この方とコンタクトを取りました。

 

 

「お義父さん、喜ぶと思います。『熱海にはこういう顔もあるんだ。綺麗な観光地だけじゃないんだ』とよく言ってました。是非、写真を使ってあげてください! そして、お義父さんの名前を記してあげてください!」

 

 

熱海の日々を撮り続けた人・忍田中氏。朝日新聞の人間であった彼は何度もこれらの写真を新聞紙面で使いたいと申し出たらしい。しかしその願いは一度も叶うことなく、熱海の日常を捉えた写真たちは暗い倉庫の中に閉じ込められていたのです。
忍田さんは熱海では自然風景の写真家として有名ですが、彼がこのような貴重な写真を撮り続けていた“ジャーナリスト”であることは誰も知りません。
この事実はいくらインターネットで検索しても絶対に出てこない情報なのです。

 

これらの取材を終え、ライター鈴木光司は以下のように書き記しました。

 

『風俗ライターである筆者は、
いまの社交と赤線(カフェ)の女給の立ち位置の違いを、
ある程度、理解しているつもりだ。
それこそ新聞が言うように、
赤線には“虐げられた”女性もいたであろう。
しかし、それでも忍田氏の写真のなかに佇む女給たちには、
いまの価値観では押し計れない、微妙な明るさ、あるいは気楽さが見てとれる。
少なくても、職業を全うしようという意志は感じられる。
〜中略〜
ジャーナリスト・忍田中氏が語りたかったこと。
いまとなっては、その心中を知るすべはないが、
遺された写真には、
糸川と昭和の「事実」が確かに映し出されている。』

 

 

これが「私が昭和30年代の遊郭写真を所持している理由」です。

 

 

その写真の数々は、現在ファミリーマート限定で発売されている『昭和の謎99』にたっぷりと掲載されています。ネットでも購入できますから、ひとつの資料としてクリックしてみてください。

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